勝海舟|世界の名言集~素晴らしき人が残した名言
勝海舟
勝 海舟(かつ かいしゅう) / 勝 安芳(かつ やすよし、文政6年1月30日(1823年3月12日) - 明治32年(1899年)1月19日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代初期の武士(幕臣)、政治家。位階勲等爵位は正二位勲一等伯爵。山岡鉄舟、高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と呼ばれる。 幼名および通称は麟太郎(りんたろう)。諱は義邦 (よしくに)、明治維新後改名して安芳。これは幕末に武家官位である「安房守」を名乗ったことから勝 安房(かつ あわ)として知られていたため、維新後は「安房」を避けて同音(あん−ほう)の「安芳」に代えたもの。勝本人は「アホゥ」とも読めると言っている。海舟は号で、佐久間象山直筆の書、「海舟書屋」からとったものである。海舟という号は元は誰のものであったかは分からないという。 父は旗本小普請組(41石)の勝小吉、母は勝元良(甚三郎)の娘信。幕末の剣客・男谷信友(精一郎)は血縁上は又従兄で、信友が海舟の伯父に当たる男谷思孝(彦四郎)の婿養子に入ったことから系図上は従兄に当たる。
勝海舟の名言
あれのこれのと心配ばかりしていては
自然と気が餓え神(心)が疲れて
とても電光石火に起こりきたる事物の応接はできない
天下の大勢を達観し
事局の大体を明察して
万事その機先を制するのが政治の本体だ
外国へ行く者が
よく事情を知らぬから知らぬからと言うが
知って行こうというのが良くない
何も用意しないでフイと行って
不用意に見て来なければならぬ
島国の人間は
どこも同じことで
とにかくその日のことよりほかは目につかなくって
五年十年さきはまるで暗やみ同様だ
それもひっきょう
度量が狭くって
思慮に余裕がないからのことだよ
急いでも仕方がない
寝ころんで待つのが第一だと思っています
学者になる学問は容易なるも
無学になる学問は困難なり
人はみな
さまざまに長ずるところ
信ずるところを行えばよいのさ
社会は大きいからあらゆるものを包容して毫(ごう)も不都合はない
人間の精根には限りがあるから
あまり多く読書や学問に力を用いると
いきおい実務の方にはうとくなるはずだ
人間
数ある中には
天の教えを受ける勘を備えている者がある
その人がどれだけの人かは
人生に日が当たってない時にどのように
過ごしているかで図れる
日が当たっている時は
何をやってもうまくいく
時勢の代わりというものは妙なもので
人物の値打ちががらりと違ってくるよ
世人は
首を回すことは知っている
回して周囲に何があるか
時勢はどうかを見分けることはできる
だが
もう少し首を上にのばし
前途を見ることを覚えないといけない
人の一生には
炎の時と灰の時があり
灰の時は何をやっても上手くいかない
そんなときには何もやらぬのが一番いい
ところが小心者に限って何かをやらかして失敗する
功名をなそうという者には
とても功名はできない
戦いに勝とうという者には
とても勝ち戦はできない
何ごとをするにも
無我の境に入らなければいけないよ
世に処するには
どんな難事に出逢っても臆病ではいけない
「さあ
なにほどでも来い
おれの身体がねじれるならばねじってみろ」
という料簡で事をさばいてゆくときは
難時が到来すればするほどおもしろ味がついてきて
物事は造作もなく落着してしまうものだ
自分の価値は自分で決めることさ
つらくて貧乏でも自分で自分を殺すことだけはしちゃいけねぇよ
政治家の秘訣は何もない
ただ
「誠心誠意」
の四文字ばかりだ
何でも大胆にかからねばならぬ
難しかろうが
易しかろうが
そんな事は考えずに
いわゆる無我の境に入って断行するに限る
やるだけのことはやって
後のことは心の中で
そっと心配しておれば良いではないか
どうせなるようにしかならないよ
機先を制するというが
機先に遅れる後の先というものがある
相撲取りを見てもただちにわかる
事を成し遂げる者は愚直でなければならぬ
才走ってはうまくいかない
外交の極意は
誠心誠意にある
ごまかしなどをやると
かえって
こちらの弱点を見抜かれるものだよ
生死を度外視する決心が固まれば
目前の勢いをとらえることができる
難局に必要なことはこの決心だけだ
俺など本来
人(生まれ)が悪いから
ちゃんと世間の相場を踏んでいる
上がった相場はいつか下がるときがあるし
下がった相場もいつか上がるときがあるものさ
その間
十年焦らずじっとかがんでいれば
道は必ず開ける
人には余裕というものが無くては
とても大事はできないよ
もし
成功しなければ
成功するところまで働き続けて
けっして間断があってはいけない
世の中の人は
たいてい事業の
成功するまでに
はや根気が尽きて疲れてしまうから大事ができないのだ